音楽家
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 私は目を覚ます。いつも自分のいない夢を見ている。そして泣く。うなされる。音楽家は自分ではないのか。そう思う。自分にそう言い聞かせようとする。しかし、音楽家は別の肉体を持ってそこに存在している。意識の中だけの存在ではない。肉体が目の前にある。音楽家は別の人間であって私ではない。父親ではないのか。似たものを感じることがある。私の中に音楽家の遺伝子があるのではないのか。いつも共通した何かを感じている。それは音楽の中に隠されている。音楽家の遺伝子は音楽を通して私の中に組み込まれていく。父親は生きていた。では、母親はどうしたのか。母親も生きている。ピアノが母親なのだ。音楽家とピアノが交わることによって私は生まれてきた。私は音楽なのだ。音楽家の作るものすべては兄弟で、だから心地よく、ときに苦しいのだ。
 音楽家は自由な音楽を生み出している。私であり、私の兄弟であり遺伝子であり言葉であり何にでも変わることができる。音楽家が曖昧な存在なだけに、生まれてくる音楽にもはっきりとした姿は見えない。そこには何が隠されているのか。音楽家とその瞳の奥に見える影だけが真実を知っている。何かがあるのを知っていながら分からないもどかしさほど苦しいものはない。分かりたくて仕方ない。その真実を知るにはまず私を教えなければならない。音楽家が私を知り、私が音楽家を知る。しかし、音楽家に教えられるほど私には何もない。自分でも知らないだけかもしれない。いや、何もないのが本当だ。だから私は自分の存在を確認できずに音楽家にすがっている。音楽家もそうなのだろうか。
 私は音楽家を愛している。音楽家以外の人に出会ったことがない。私は愛というものを知らない。音楽家は私に愛を教えなかった。ただ、愛という言葉があり、人はそれをよりどころとし生きる希望に変えている。そう言っただけだった。音楽家は音楽を愛している。音楽家にとって音楽だけがすべてだ。音楽家は音楽にその身を委ね、音楽の中で呼吸をし、笑い、泣き、叫び、眠り、生きている。私は音楽家を愛している。音楽家の存在にこの身を委ね、音楽家の中で呼吸をし、笑い、泣き、叫び、眠り、生きている。音楽家と音楽。私と音楽家。私は音楽。私は音楽家に愛されている。音楽家に愛されたい。
 音楽家が音楽と戯れている。狂おしい。狂おしい。狂おしい。音楽家は音楽を見つめている。私は音楽家に見つめられた記憶がない。私はいつも音楽家を考え、思い、見つめている。しかし、音楽家はそれに気付こうとしない。いや、もしかしたら気付いているのかもしれない。音楽家は気付いていながら私を無視し、音楽と戯れる。何も言わない。ただ音楽と戯れる。その音楽の中に答えがあるのかもしれないが、私にはまったく分からない。今の私にとって音楽はもはや毒にすぎない。私を苦しめ、音楽家と共に笑って私を見ているようにしか思えない。あの心地よさはもうすでに過去の記憶になりつつある。そしてそれさえも私を痛めつけている。打ちのめそうとしている。私かもしれなかった、私の兄弟かもしれなかった、私の中で生きる遺伝子かもしれなかったあの音楽。音楽はもういない。
 私は音楽を殺そうとしている。音楽が死んだら音楽家はどうなるのか。音楽が死ねば音楽家も死ぬかもしれない。音楽と音楽家。どちらかが死ねばもう片方が死ぬ。私が死ねばどうなるのか。音楽家は今と変わらず音楽と共に生きていく。私と音楽家。私が死んでも音楽家は死なない。音楽家が死ねば私は死ぬ。私は音楽を殺せるのか。音楽家を殺せるのか。私を殺せるのか。私は音楽家を愛している。私は音楽を殺す。私はすべてを殺し始める。
 音楽家が音楽を抱きしめる。虫の息の音楽を音楽家のすべてで抱きしめている。私は音楽を殺した。いや、音楽はまだ生きている。もうじき死ぬだろう。私は音楽家を見つめている。音楽の最期を音楽家は見つめている。私はそこに近づけない。遠くで見ているだけだ。音楽家は初めて音楽でない自分の言葉で音楽と会話している。音楽家は見たことのない優しい瞳をしている。音楽と共に笑っている。私は何もできない。音楽を殺すことしかできなかった。音楽家が歌う。最期の音楽。音楽が歌う。音楽家が歌う。私は歌うこともできず、ただみつめている。音楽が、死ぬ。
 風が吹いた。気のせいか、妙に暖かく、妙に心地よい。草が揺れた。気のせいか、鼓動が聞こえ、妙に優しかった。音楽家を見た。柔らかい風に吹かれそこに立っている。私は相変わらず音楽家を見つめている。音楽家が私を見る。今、初めて見つめられる。愛する音楽家に見つめられている。私は微笑む。音楽家はただ笑いもせず私を見つめている。気のせいか、瞳の奥に女性の影が見える。音楽家によく似た美しい女性が寂しそうに音楽家を見つめている。音楽家もその女性を見つめている。音楽家はその女性を愛し、その女性も音楽家を愛している。女性が言う。
「あなたのではない肉体を持ち、あなたに出会い、そしてあなたの腕に抱かれたかった」
 音楽家は私の耳にはもう聴こえない音楽で女性を優しく包み込む。私は音楽家に見つめられていない。何も知らなかった。私は何も知ることができなかった。音楽家の世界から私の存在が消えていく。いや、ずっと昔からなかったのかもしれない。私には父親も母親も音楽家も、そして私もいない。
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