音楽家
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 私には父親と母親がいない。いや、正しく言うならば、物心ついたときから会ったことがない。名も知らない。顔も知らない。声も知らない。文字も知らない。知っていることといえば、私に血を与えてくれた父親と母親という二人の人間がいて何らかの事情で私を見捨てたという事実だけだ。その物的証拠が今ここにいる私という人間なのだ。私から離れていった二人の男女はこの広い世界の何処かで生きている。たぶん生きている。
 私は名も知らぬ音楽家と共に生きている。幼い頃から私を育ててくれたが、その音楽家は一度だって自分のことを語ってくれたことがなかった。私も訊こうとはしなかった。お互いに何も知る必要はないと思っているのかもしれない。音楽家が私について知っていることは私が「捨てられていた子供」であるということだけで、私が音楽家について知っていることは音楽家が「音楽家」であるということだけだ。
 音楽家はあまり姿を現さない。会話を交わすこともない。重要なことは音楽家から学んだこの文字による言葉で伝え合う。何週間も姿を見せないことがある。そんな時、私は必ず不安を抱く。音楽家は本当に生きているのだろうか。この世に存在しているのだろうか。もし音楽家が存在していないとすれば私はどうなってしまうのか。私も存在していないのか。私は音楽家の存在を確かめることにより、自分の存在を確かめる。音楽家が私の存在そのものに思える時がある。
 音楽家がピアノを弾いている。何という曲なのかは分からない。音楽家自身によるものなのか、違うのか。音楽家が生み出すメロディーは妙に心地よかった。遠い昔、生まれてくる前から私はこの音楽を聴いていたのではないか。私はピアノだったのかもしれない。音楽家は前世も音楽家で私を通して音楽を生み出している。音楽家と私がまた重なり合う。私にはどうしてもそう思えてならない。メロディーが違和感なく私の中に吸い込まれていく。私のものであったかのように。
 私は眠る。音楽家はいつもこの時間に同じ曲を演奏する。それは微妙に変わりつつあるのかもしれないが、耳に入ってくるそれはいつも同じ温かさで私を眠らせてくれる。私はまたいつものようにこの曲を子守唄のようにして、深い眠りに落ちる。ふと、音が止まった。そして少し間を置いて、様々な破壊音がこの狭い家中に響いた。不協和音が私の耳の中で次第に膨れ上がってゆく。頭を抱える。泣く。そして叫ぶ。やめて、やめて。呪文のように同じ言葉を呟く。それに応えるように音楽家は叫びをあげる。不協和音や破壊音で音楽家は行き詰まった嘆きや苦しみを訴える。私は音楽家を救うことができない。誰も音楽家を止めることができない。私は柔らかな布団の中でただ泣きつづける。音楽家にはその声が届いていない。
 音楽家が空を飛ぶ。深い森の中から抜け出した音楽家がやさしく宙を舞う。音楽家の動きは音のようになめらかに、狂ったように波を打ちながら空を漂う。そこに私の姿はない。私はどこにいるのか。どこから音楽家を見ているのか。私はこの青い空なのか、雲なのか。それとも音楽家がそうなのか。音楽家が笑っている。私か。何を笑っているのか。
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