遠ざかる街並み
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 目が覚めると、そこは僕の部屋だった。やっと戻ってくることができた。
 部屋には机と椅子があるだけで、他には何もない。
 僕は机の下で猫のように丸くなっていた。いつからここにいたんだろう。狭くて暗いけど、毛布で包まれているように暖かい。今まで僕はこの中で眠っていたみたいだ。
「ミニカー」
 さっきまで持っていたはずのミニカーがない。机の下にも引き出しの中にもミニカーはない。たぶん僕は眠る前もミニカーで遊んでいたはずだった。ずっと手放すことなく遊んでいたはずなのに、僕は大事なミニカーをどこで忘れて来たんだろう。
 誰かいる。僕よりも大きい男の人だ。ミニカーで遊んでいる。あれはたぶん僕が探しているミニカーだ。
「それ、僕の」そう言うと、男の人は驚いたように振り向いて、そして僕を不思議そうに見ている。この人は誰だろう。男の人が持っているのはやっぱり僕が探していたミニカーだ。どうしてこの人が持っているんだろう。
 僕は勇気を出してもう一度言った。
「それ、僕の」
 男の人は僕を見てからミニカーを確認して、そして僕に返してくれた。
 ミニカーは僕のおもちゃの中でいちばん大事なものだ。
 誰かはわからないけど、この人はきっと悪い人ではないと思う。僕はズボンのポケットにアメがあったことを思い出して、ミニカーの代わりに
「これ、あげる」と言って僕の好きなアメを男の人にあげた。
 もしかしたら仲良くなれるかもしれない。
「おいしいよ」
 僕がそう言うと男の人はほんの少し戸惑ったようだったけど、アメを口の中に入れた。たぶん僕のことを信じてくれたんだと思う。まだ名前を知らないその男の人は、僕のあげたアメを喜んでくれたみたいで、ふっと笑ったように見えた。
 すると突然、男の人はふわりと宙に浮かんだ。どうしたんだろう。
 男の人はそのままどこかへ行ってしまう気がして、僕は手を振った。男の人はいつまでも僕を見ていた。見えなくなるまでずっと。
 もしかしたら、また会えるかもしれない。
 
 それから僕は外に出た。扉にも窓にも触れていないのに「外へ行きたい」と思ったら外に出てくることができた。
 誰もいなかった。
 外の景色がすべて白一色に染まっていて、何もない。僕の家はもちろん、隣の家も、街路樹も、駄菓子屋も、坂道も、青空も、何もない。
 周りには人影もなく、友達の名前を呼んでみたけど、返事は聞こえてこなかった。みんなは僕を置いてどこかへ行ってしまったんだろうか。
 バスの音が聞こえる。
 バスに乗ってみんなを探しに行こうか、あるいは帰ってくるかもしれない。
 バスが見えてきた。運転してる人は誰だろう、帽子に隠れて顔がわからない。ここにはバス停もないけど、僕に気づいて止まってくれるだろうか。僕は手を挙げてバスを呼んでみる。
 バスは僕の前まで来たけど、スピードを落とすことなく、通り過ぎようとしている。窓際の席にさっきの男の人がいるのが見えた。僕に気づいたみたいだ。やっぱりまた会えた。遊びに来てくれたんだ。名前を呼ぼうと思ったけど、僕はその男の人の名前をまだ知らなかった。
 そのままバスは止まることなく行ってしまった。
 また、静まり返った何もないところで僕だけひとり取り残されている。家も、犬も、街灯も、曲がり角も、足音も、どこへ消えてしまったんだろう。どうして誰もいないんだろう。みんなどこへ行ってしまったんだろう。
 僕はあてもなく歩きだした。景色は何も変わらないので、どこまで歩いても、どれだけ歩いたかわからないし、どこまで来たかもわからない。どれだけ時間が経ったのかもわからない。
 また同じバスの音が聞こえてきた。
 僕は道の真ん中へ飛び出した。きっとバスは僕の目の前で止まってくれるはずだ。
 バスが来た。
 あっと思う間もなく、僕はバスの中にすうっと入って行った。少し強い風が吹いたようだった。僕は鬼ごっこのつもりで男の人を捕まえようと手を伸ばす。今度こそ僕と遊んでくれるかもしれない。僕と一緒にいてくれる。バスが走るのと同じスピードで僕は男の人に近づいていく。男の人は両手を広げてまっすぐ僕を見ている。
 僕は一瞬、男の人の中に入った気がした。そして、もう男の人はいない。振り向くと、僕の後ろでバスが遠ざかっていく。また、男の人は僕を置いてどこかへ行ってしまった。
 そして、やっぱり白い景色だけが残った。
 バスの音はもう聞こえない。
 誰もいなくなってしまった。話すことも、遊ぶこともできない。僕はまた、ひとりぼっちなんだ。
 
 目尻に涙の筋が残っていた。
 少しまどろんだらしい。誰かが鳴らした降車ボタンのベルの音で目が覚めた。バスが揺れている。
 僕は夢を見ていたのか、それとも昔を思い出していたのか。
 あれからもう何年も経つ。今はもうたくさん友達がいる。恋人もいる。あの頃とは違う。
 もうひとりじゃない。
 僕は窓の外をずっと見ていた。
 遠ざかる街並みを見ながら、僕はまた涙を流していた。
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