遠ざかる街並み |
誰かが僕を呼んでいる。僕を必要としている。 僕はそこに行かなければならない。僕を呼ぶ、その人に会わなければならない―― 目が覚めると、僕は見覚えのない部屋にいた。そこは僕の部屋ではない、空っぽの部屋だった。 僕がいるだけで、他には何もなかった。床も、壁も、天井も真っ白で、それぞれの輪郭となる影すらも見えないその部屋は、まるで「無」のようだった。白一色で染まり何もないその部屋は、立体感覚もないためうまく距離感を掴むことができないのだが、手に触れた感覚では、大人がひとりすっぽり入って少し身動きできるくらいの広さだと思った。輪郭が曖昧なうえに他に何もないその空間は暗闇よりも居心地が悪く、はっきりとしない不安に息苦しく感じた。 「もはや自分すらも存在しないのではないか」と疑い、 「早くこの部屋を出なければならない」と思った。 目の前に扉があった。その扉を開ければ、僕はこの不思議な空間から抜け出すことができるのではないかと希望を持った。 だが、それはすぐに裏切られる。 僕が身体を起こしてその扉を開こうとすると、扉は僕を避けるようにすうっと遠く離れていった。水に浮かぶ小舟を水圧で遠ざけるように、僕が手を伸ばせば伸ばすほど、その扉はより遠く離れていくように思えた。 「願いなさい」 声が聴こえた。優しい女性の声だった。 僕は周りを見てみたが、それらしき人は見当たらなかった。 「願いなさい」 尚も声は聴こえてくる。何を願えばいいのだろう。 「扉の向こうへ行きたいと、願いなさい」声が言う。 扉の向こうへ―― そう願うと、遠くで扉は開き、その奥からまばゆいばかりの無数の光の粒子が音もなくまっすぐ飛び込んで来た。光の粒子は僕を取り囲むと、そこで一気に凝縮するように僕の身体を包み込む。そのまばゆさと、熱のやわらかさに、だんだんと意識が薄れていくのを感じた。そうして光の粒子に包まれた僕の身体は、ゆっくりと吸い込まれるように、扉の方へと運ばれてゆく。 僕は扉の向こうへ飛び出していった。 その扉を抜ければ、僕の部屋に戻れると思っていた。けど、今いるこの場所は、僕の部屋ではない。見覚えがあるけど、僕の部屋ではない。懐かしいにおいがするけど、僕の部屋ではない。ぼんやりと見えるこの部屋には色も影も輪郭もある。ぬくもりも感じる。まだ不確かだけど、それでも僕がここにいるという実感がある。 ふと気がつくと、僕は片手にミニカーを持っていた。見覚えのあるおもちゃだった。この部屋と同様に、すごく懐かしく、不思議と心が落ち着く。子供のころ日がな一日一緒に遊んでいたのを思い出す。あのころのようにすうっと床を走らせてみると、走った分だけときめきが満ちていくのがわかった。でも、僕はこのミニカーをどこで拾って来たのだろう。もう何年もミニカーで遊んだことはないはずだ。 「それ、僕の」 ふいに声がして振り向くと、一人の少年が僕の持つミニカーを指差していた。 いつからこの部屋にいたのだろう。僕が気づかなかっただけで、ずっとこの部屋にいたのかもしれないし、あるいはかくれんぼの途中で机の下に隠れていたのかもしれない。この部屋には学習机と椅子があるだけで他には何もない。学習机の隣の窓からは日が差している。 少年は、僕に似ている。 「それ、僕の」 僕に似たその少年は僕の手の中にあるミニカーのことを言っている。 少年は不安げに僕を見ている。どうやらこのミニカーは少年のものらしい。どうして僕が持っていたのかわからないし、そもそも今の僕には必要のないものなので、懐かしさにちょっぴり後ろ髪をひかれたけど、少年の小さな手の中にミニカーを返した。 少年はにっこり笑い、小さな手から少しはみ出るミニカーを大事そうに握りしめると、 「これ、あげる」と半ズボンのポケットから小さなアメを取り出し、僕にくれた。 「おいしいよ」 少年は可愛い微笑みを浮かべて僕を見ていた。 その少年の笑顔に僕の心は大きく揺らいだ。そして少年の笑顔が僕の心を圧倒した。それは嬉しいわけでも悲しいわけでもなく、感情が揺れるのでも気持ちが変化するのでもなく、コップに水がたまっていくように、僕の心は少年の笑顔で満たされていった。 僕は少年の言葉に促されてアメを口に含んだ。甘くなめらかな味が溶けてゆき、目を閉じると、その甘さが僕の中から外へと広がってゆくのを感じた。やがてそれは逆に僕の身体をまるごと飲み込んだ。 甘くなめらかな味に飲み込まれた僕の身体は、甘さが広がるほどにふわりと宙に浮き、少年を見下ろしていた。 少年は手を振っていた。笑顔のままで。 そして、僕はアメの甘くなめらかな味に溶けるように、消えた。 それからもう何年も経ってしまったような気がする。 僕はバスに乗っていた。運転手と僕以外には誰も乗っていない。 バスは音もたてずに、ただ真っ白な景色の中を静かに走り抜けていく。 僕の横顔を映す窓ガラスと緑色をした座席は振動することがなく、垂れ下がる吊り革は揺れていないし、降車ボタンには灯りがともる気配がない。行き先を告げる電光掲示板もスピーカーもすっかり沈黙している。まるで走っていることを忘れているかのようなバスの中で、僕もまた指先ひとつ動かすことなく、緑色をした座席に身を預けたままでいた。 僕は窓の外をずっと見ていた。幼い頃に住んでいた懐かしい街並みを、その壁のような真っ白な景色に映しては、あの頃を思い出していた。家族と過ごした家や、買い物にでかけたスーパー、馴染の中華料理屋、小高い山のある公園、初めて通った小学校が次々に現れては消えていった。 そのうち、真っ白な壁からずっと昔の僕の姿がすうっと現れた。それは古いビデオテープを再生したときのような乱れた残像から、やがて生々しい肉体を帯びてゆく。昔の僕は悲しげで、それでいて澄んだ瞳は僕をじっと見つめ、やがてその表情に灯がともるように見えた。しかし、緩むことのないバスのスピードに僕と昔の僕は引き離されてしまう。 昔の僕は僕に何を伝えようとしていたのだろうか。 僕の気持ちを無視するかのように、あるいは最初からそんなものはなかったかのように、バスは何も言わずにただひたすら白い景色の中を走っている。 「危ない!」僕は叫んだ。バスの前に突然ひとりの少年が現れた。それはさっき真っ白な壁から現れてそして引き離されてしまったずっと昔の僕だった。 少年はバスの中に僕がいることに気づくと、僕に向かって手を差し出してきた。それは助けを求めているようでもあり、僕を捕まえようとしているようでもある。僕はそれに応えるようにまっすぐ手を差し伸べる。今度こそ僕はこの少年を受け止めなければならない、そう思った。 「あっ……」 バスが目の前に来たとたん、少年は初めに見たときのような、ビデオの再生が乱れたような残像になると、そのままバスをすり抜けてきた。バスのスピードが急に緩んだような気がした。そして、ゆっくりと進むバスのスピードの中で、少年は静止したまま、まっすぐ僕に近づいてくる。少年の小さい手の中に、バスも僕も飲み込まれるような気がした。僕は少年を受け止めようと両手を広げる。沈んだ表情の少年の瞳がうっすらと光ったような気がした。 「……」 残像になった少年は僕の身体の中に入り込むと、留まることなくバスのスピードに引っ張られるようにそのまますり抜けて行ってしまった。僕は振り向いて残像になった少年の後を追おうとしたが、バスの床に溶けてしまったように足が重く、身体は動かない。どんなに意識しても、僕の手は少年には届かない。バスはまるで僕らを置き去りにするかのようにまたスピードをあげる。 僕の中には、残像になってすり抜けていった少年の悲しみだけが残されていた。 残像になった少年の姿がやがて白い壁に溶けて消えると、突然、目も眩むようなまばゆい光の粒子が四方の窓ガラスから噴き出すように飛び込んできて、バスの中を満たしていった。 |
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