| 夜の訪問者 |
| こんな夢を見た。 部屋の灯りが落ちる。 ぼんやりと余韻を残した蛍光灯以外はしんと暗闇に浸る部屋の、その息を潜めたような静けさを楽しむのが就寝前のいつもの楽しみだったのに、その夜は残念ながらそうはいかなかった。 ハタハタハタと音が聞こえる。そしてその音は移動している。右から左へ前から後ろへそして時折頭上を通り近寄ったり遠のいたり、忙しなく部屋の中を動き回っている。 暗闇の中ではまだ目は頼りなく、耳だけがその存在を追いかけ、脳が必死にその情報を処理しようとしている。音の主はいったい何か。ハタハタハタという音はおそらく羽が羽ばたく音で、とすれば鳥なのだろうか。いや、それにしては音がもう少し軽い気がするしあまり優雅に羽ばたく気配ではない。虫にしては音が大きすぎるし存在感がありすぎる。 得体の知れないものにお構いなしに自由にされているこの状況は大変不愉快である。 眠気が遠のくのであまり部屋を明るくしたくはないのだが、かといってこのまま部屋の中を飛び回られるのも不愉快な気分でいるのも、いずれにしても眠れる状態ではないので、意を決して灯りをつけた。 こうもりだった。 こっちも驚いたが向こうもだいぶ驚いたらしく、ハタハタハタという音がさらにやかましくなり、不規則に部屋の中を旋回している。耳だけで追っているぶんにはまだましだったのだが、その不規則な動きを目でも追うとなるとめまいがしそうな忙しなさだった。不快感は増すばかりである。 子どもの頃、名前は忘れてしまったが近所にいたおじさんから「こうもりだけは気をつけろ」と忠告されたことを三十年ぶりに思い出した。今思えば他にもっと人生において大事な教えがいくらでもあったろうに、そのおじさんはわたしに「こうもりだけは気をつけろ」と会うたびにそれだけしか教えてくれなかった。そのおじさんには三十年後のこの夜のわたしが見えていたのだろうか。そんな能力があるのなら、やはり他にもっと大事なことを教えてほしかった。そしてもうひとつ残念なのは、おじさんは「気をつけろ」と言うだけで、こうもりに出会った際の対処法を何も教えてくれていなかった。 おじさんの忠告を思い出したときにはすでに気をつけようのないほどの緊急事態である。 しかも、その忠告を思い出したからだろうか、こうもりの動きが攻撃的になり、わたしに敵意を向けているように思えてきた。 そういえば三年くらい前、名前どころかどこで会ったかも忘れてしまったが、わたしに「こうもりに噛まれたら大変だ」と教えてくれたおばあさんがいた。噛まれたらどう危険なのかまでは教えてくれなかった。おじさんの時もそうだが、まさかそんなことに巻き込まれるとはつゆほども思っていなかったので、詳しく聞かなかったことが悔やまれてならない。 おばあさんからの忠告を思い出したせいで、それまでは不快でしかなかったのが恐怖と不安に変わってしまい、ますますわたしは窮地に立たされたような気がした。 人生何が起こるかわからない。だからこれからは忠告に対して甘く考えず、むしろ前のめりなくらいでもいい、きちんと話を聞かなければならないと思った。しかし、わたしにそんな未来がまだあるのだろうか。 気のせいか、忠告を思い出すたびにこうもりは凶暴になりいよいよわたしを襲ってくるようになった。わたしは噛まれたら大変なので、飛び込んでくるこうもりをいちいち払い落とそうとするのだが、こうもりはしつこく、まったくめげない。ぶつかり稽古でもあるまいし、わたしはいつまでこんなことを繰り返せばいいのか。はー、どすこい。 そして、ついにわたしはこうもりに右手を噛まれる。 おじさんとおばあさんとの思い出が走馬灯のようによみがえりこそしなかったが、ふたりからの忠告が頭の中をぐるぐると回っている。 「こうもりだけは気をつけろ」 「こうもりに噛まれたら大変だ」 振り落とそうとしてもいくら叩いても、わたしの新しい右手にでもなったかのように、こうもりはしぶとく噛みついたまま離れない。思ったほど痛みはないのだが、だんだんと痺れて感覚がなくなっていくような気がする。これは何か毒でも回っているのではないかと不安になり、これはもう駄目だと弱気になる。 この腕は何故痺れ始めてるの。こうもりは何故わたしに噛みつくの。教えておばあさん、教えておばあさん、教えてアルムのもみの木よ。 いよいよ右腕の感覚がなくなり動かせなくなってしまった。 満足したのかこうもりはいつの間にか姿を消している。 部屋の灯りが落ちる。 ぼんやりと余韻を残した蛍光灯以外はしんと暗闇に浸る部屋の、その息を潜めたような静けさの中で、わたしは動かない右腕を抱えて打ちひしがれている。 「強い意志があれば克服できる」という声が聞こえた気がした。頭の中に直接訴えかけられたような気もする。もしかして三十年前の近所のおじさんからのメッセージだろうか。わたしはなるほどと思い、強く「この腕を動かしたい」と意識してみる。すると確かに腕が軽くなり動かせるようになった。 三十年前の近所のおじさん、ありがとう。 すっかり眠気が失せてしまったので、気分を変えるためにテレビをつけてみた。画面に満面の笑みのタモリが映し出される。こちらとは違い何かとてもご機嫌なことがあったようだ。番組は「タモリ倶楽部」で、タモリは見慣れた作業服姿で中堅の芸人ふたりとおそらく素人と思われる中年の女性と楽しげな様子だった。 「新プロレリアーグ新名材新セクワイサーの代表はなんでも坂本さん≠使って例える」というテロップとナレーションが入るのだが、途中から見始めたわたしにはそれが何の解説にもならず、気分転換のつもりが余計にモヤモヤする羽目になった。 |
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