そのときのふたり
spacer
 僕の母さんは三年前に亡くなっている。
 僕は十歳。
 父さんとふたりで暮らしている。
 僕たちふたりには会話という会話がなかった。いつも一緒にいるときでもお互い何も言わず黙っている。母さんが亡くなる前から、父さんとは会話をした記憶がほとんどない。話すことがあるとすれば、何かを求めるときとか、何かを報告するときとか、それはだいたい一方的なので会話と言えるようなものではなかった。話さなくても、あまり不便はなかった。これといって、ふたりで話せるような話題も僕らにはなかった。
 寂しいかと訊かれれば、寂しくないと答えるのは嘘になる。
 父さんは真面目な人だった。酒も煙草もやらず、パチンコや競馬などのギャンブルも一切やらなかった。その代わりにこれといって健全な趣味があるわけでもなさそうだった。休みの日はずっと家にいて、ただぼんやりとリビングのテレビの前のソファに座っている。笑っているわけでも悲しそうなわけでもなく、そもそも夢中になっている姿を見たことがなかった。
 父さんには何もなさすぎた。一見真面目で理想的な父親に見えるが、僕にはつまらない人に思えた。だからと言って軽蔑しているわけでもない。ただ、自分もいつか、こんなつまらない大人になってしまうのかと、怯えることがある。
 何もない父親と無言で孤独に暮らすより、むしろ酒にまみれて帰ってきた男に殴られる生活の方が、よっぽどいいのではないかと思ったことすらあった。まったくコミュニケーションや気持ちの表現がない生活よりずっと実感があるのではないかと思ったのだ。でも、それは決してコミュニケーションでもなければましてや愛情表現などではない、ただ寂しくて甘えているだけの可哀想な人だと、本で読んだことがある。
 父さんは、寂しくないのだろうか。
 
 そんなある日のことだった。
 父さんとふたりで外出することになった。
「暑いな」と父さんがわざとらしくそう言った。普段テレビを見ていても、食事をしていても、感想を言う人ではなかった。僕はなんて返事をしていいのかわからなかった。そうだね、と一言返せばいいだけだったのに、それすらも僕は忘れていたのだ。
「クーラーもないし」
 かたかたと鳴り続ける扇風機が、僕から目を逸らすように顔をそむける。
「出かけるか」
 僕は黙って首を縦に振った。
 外出に誘われたからといって喜ぶことはなかった。三年間、よっぽどのことがないかぎり、ふたりで外出することがなかったからだ。外食にでかけたことも、買い物にでかけたことも、映画や遊園地に行ったことも、ふたりの思い出にはない。楽しい思い出がないので、僕にはイメージすることすらもできなかったのだ。
 僕は捨てられるのかもしれない――
 本気でそう思った。
「行くぞ」
 僕の不安をよそに、父さんの運転する車が走り出した。父さんが運転する車に乗るのもずいぶん久し振りのことだった。もしかしたら、父さんが運転する車で、僕が助手席に座るのはこのときが初めてだったのかもしれない。僕の緊張は父さんには伝わっていただろうか。
 幼稚園の年中のとき、母さんが寒いからとタイツを二重に履かせてくれたので、あれは冬だったと思う。普段あまり目立たない僕が、お遊戯会で主役のピノキオを任されたことがあったのを思い出した。
 母さんはおとなしい僕が主役に選ばれたことをものすごく喜んでくれて、僕の晴れ舞台のために素敵な衣装を作るんだとはりきっていた。そして、父さんも必ず連れて見に行くからと励ましてくれた。僕はそれが嬉しくて、クラスの誰よりもがんばってセリフを覚え、歌を練習した。だから稽古のたびに先生が褒めてくれたのだが、それを特別嬉しいとは思わなかった。本当に褒めてほしい人が他にいたからだと思う。
 そして当日を迎えた。母さんがはりきり過ぎたために調和が取れなくなった衣装を着て、舞台で緊張していた僕は、客席で手を振って笑う母さんの姿を見て安心したのを覚えている。その隣に、父さんはいただろうか。それが思い出せない。あのとき、客席には無数のビデオカメラがあって、もしかしたらそのうちのひとつが父さんだったのかもしれない。僕の緊張は父さんには伝わっていただろうか。
 何度かセリフを言い淀む場面があったものの、僕は一生懸命に歌ったし踊った。あとで、母さんは手放しに褒めてくれたのだが、父さんからは結局、感想は聞けなかった。
 運転席の父さんは珍しくずっとしゃべり続けた。昨日見たニュース番組の女性キャスターのこと、昨日無断欠勤した会社の同僚のこと、昨日食べた芋きんというお菓子のこと、ラヂオから流れている浪曲のこと、そのとき視界に入った探偵社の看板のこと、およそどうでもいいようなことを、笑うわけでも悲しげなわけでもなく、ただ淡々としゃべり続けていた。
 父さんはいつもの父さんではなかった。どうしてこんなにしゃべるのか。努めて笑顔で話しているようだったけど、どこかぎこちない。
 僕は返事をすることもままならず、ただうつむいてそれでも父さんの様子を窺っていた。
「電化製品売り場だな、クーラーは」
 デパートに着いてからも、父さんはしゃべり続けた。
「涼しいな」その言葉がただの感想なのか、僕への声かけなのか、はっきりしないまま、僕は冷風になびく『大売り出し』の文字をぼんやり見ていた。
 しばらくそうしてエアコンの風に当たっている僕たちふたりに、話しかけてくる販売員のおじさんがいたのだが、何を言われても、父さんは薄ぼんやりとした返事をするだけだった。やがて販売員のおじさんも諦めたようで、またしばらく僕たちふたりは取り残されたように、同じエアコンの前で、変わらない冷たい風を浴び続けていた。
 母さんが亡くなって、お葬式をして、火葬場に行ったときのことを思い出す。
 煙突から上る煙を残された遺族が見つめる、そういう映画のワンシーンを思い出した父さんが、ふたりで母さんを見送ろうと、僕を誘って外に出たのだが、その火葬場には煙突がなかった。父さんは時計を確認してみたり、建物のまわりを歩いて煙突を探しているようだったが、しばらくすると諦めたようで、僕の横で肩を落とした。
 母さんがどこへ行くのかもわからず、うまく見送ることもできずに、取り残された僕たちふたりは、しばらくただ何もない空を見ていた。
 あのとき、本当に母さんはいなくなってしまったんだ、と実感したのを覚えている。
 父さんが何かうまくいかないことがあると、いつも器用な母さんがそっと手を差し伸べ援護した。僕には不安がらないように、笑顔を崩さず声をかけてくれた。僕も父さんも、そういう母さんに甘えることで、ごまかしてきたことがたくさんあったような気がする。
「少し、冷えてきたな」
 僕はどんなことがあっても父さんから離れまいと、デパートの中では必死に父さんの後について歩いた。少しでも離れると不安でいっぱいになる。父さんがトイレに行くときはトイレまで、売り場に行くときは売り場まで、レジに行くときはレジまで、エスカレーターに乗るときはおばさんがひとり割り込んだだけでも生きた心地がしなかった。父さんを見失うようなことは許されなかった。
「さっきトイレで見かけたおじさんの耳、毛だらけだったな」
 父さんは歩きながらもずっとしゃべり続けている。
「レジのお姉さんきれいだったな」
 僕が返事をしなくても、父さんはひたすらしゃべり続けている。独り言でないのはわかっている。僕の返事を求めているのはわかっていたけど、緊張していたし、そもそも慣れていなかったので、どう答えていいかわからない。
 学校で先生や友達と話すのとは、たぶんどこかが違うのだ。学校の中での僕と家の中での僕と、同じ僕でも僕じゃない。僕にはいくつかの僕がいて、その役をその都度演じ分けている。僕はまだ、父さんと一緒にいるときの僕がどんな僕か、わかっていない。
 父さんが嫌いなわけでもない。つまらない人だし、わかりやすく愛情を表現してくれるような人でもない。父さんとふたりでいると、ひとりでいるときよりも寂しいと感じることがある。そんな人だから、僕は父さんを好きだと思ったこともなかった。
 でも、寂しいと感じたのは、僕が父さんから愛されたかったからなのかもしれない。
 僕は父さんと一緒にいたいと思った。
「行くか」
 デパートを出ると、走り出した車はさっきとは違う風景の中にいた。家には帰らないらしい。
 もし捨てられてしまうなら、せめて景色の良い所がいい――
 父さんは次の行き先を告げぬまま車を走らせていた。肝心なことには何も触れないけど、父さんはやっぱりしゃべり続けていた。そして僕もやっぱり返事ができないでいた。僕から聞けば良かったのかもしれないけど、答えが怖かった。
 僕は窓の外を眺めている。通り過ぎていく建物や看板や標識や街路樹を目で追っていた。信号機やコンビニや曲がり角の数を指折り数えていた。橋の名前や公園の名前や遺跡の名前が気になった。バス停でたたずむお兄さんがいて、駄菓子屋の前で水を撒きながら大笑いするアロハシャツのおばあさんがいて、かごを買い物でいっぱいにして自転車で走るおばさんがいて、そういうつまらないことを、僕は覚えていようと思った。
 海に着いた。ふたりで海に来ることは初めてだった。母さんと三人で来たこともなかったと思う。
 灰色の空と鈍く淀んだ海。
 僕らは砂浜に降りることなく、車の中から海を見ている。
 静かだった。波の音すら聞こえない。
「涼しかったか?」
「うん……」小さいけれど初めて返事をした。
「そうか」
 父さんは少し満足そうだった。
「これ」と言うと、父さんがポケットから小さな包みを取り出して僕に手渡した。
「誕生日だろ」
 確かにその日は僕の誕生日だった。捨てられるかもしれないという不安ですっかり忘れていた。
 母さんが生きていたころは、それぞれの誕生日に、家族三人でケーキを囲んだこともあった。学校から帰ってくると、母さんが早くから用意するその日の料理の匂いがした。ろうそくを吹き消したり歌ってみたり。手渡されたプレゼントの包みを開くと、毎年そこには直筆のメッセージカードも入っていた。喜んでいるようにも、誇らしげなようにも見える母さんの顔を思い出す。
 父さんとふたりきりになってからは、ケーキやプレゼントはあっても、ろうそくとメッセージカードはなかった。父さんの誕生日にはケーキすらない。
 誕生日が特別な日で、楽しい日であることを、僕はもうすっかり忘れてしまっていた。
「おめでとう」
 父さんが笑う、まだ少しぎこちない。
「開けてごらん」
 オルゴールが入っていた。ぜんまいを回す。メロディーが車の中に響く。
「おまえの好きな曲だろ」確かにそれは僕の好きな『星に願いを』だった。そうか、あのとき、父さんはやっぱり来てくれていたんだ。そして、覚えていてくれたんだ。
「さっき買ったんだ」父さんが言う。僕はついていくのに精一杯で気づかなかった。
 砂浜には犬に引っ張られてよたよたと走るおじさんがいる。
「ごめんな」父さんが言うと、オルゴールが止まった。
「母さんが死んで、寂しかったろ」
 僕はうまく答えられない。
「父さんも寂しかった」
 そうか、僕だけじゃない。
「でも、父さんにはおまえがいる。おまえには、父さんがいるから」そう言うと父さんは力強く、僕の肩を抱いた。
「父さんはこんなだから、うまくは言えないけど、これからもうまくいかないかもしれないけど」
 僕はもう一度オルゴールのぜんまいを巻いた。
「父さん」
「うん?」
「ありがとう」
 父さんが初めて笑った。
spacer
index
spacer
(C)office cQ all rights reserved.