記憶の詩
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 元宇宙飛行士のS−508は今記憶を失っている.いつから自分の記憶がないのかもちろん分からない.元宇宙飛行士という肩書きも本当かどうか分からない.今の彼には宇宙への行き方なんてもちろん分からない.
 いつものように目を覚ましたはずだった.そのときから今の彼の記憶は始まっている.真っ白な衣服に身を包まれて彼は鏡の前に立っていた.右胸のあたりに名札のようなものが付いていて,

  元宇宙飛行士S−508

 とそれだけ書かれていた.街を行く人々は皆口々に「胡散臭い」と言う.もちろん彼も胡散臭いとは思うが,自分を確かめる唯一の証拠なのかもしれないのでそれを頑なに信じることにしたのだ.
 目覚めた部屋の中に必ず何かがあると思い彼はとにかく部屋を歩き回った.雨の音がする.閉め切った部屋の中に漏れてくる音を聞きながら彼は手がかりを探す.
 左足の小指に何かを感じた.そこにあるものを手にすると,一冊の手帳のようだった.手帳の中に記憶に関する何かがあると彼は期待する.手帳の中には過去の彼が毎日丁寧に書き続けてきた日記があるかもしれない.新しい星に辿り着けるような予感.

  うるうん.うるるん.
  うさちゃんが
  眠る木の下で 僕は今
  空 の 穴 に潜り込む.
  ごらん,あれが木星だよ.
  黄色い た こ が僕らに手を振る.
  美しい幸福.
  立ち止まる決別.
  汚れたスカート.
  純白の青空.
  君よ,
  愛は墓場のごとく.
  らったった〜ん.

「……」
 言葉を失うとはこういうことを言うのだろう.雨の音が次第に彼を切なくさせる.記憶のかけらもない手帳を手にした彼は海を思い出している.

  びら〜ん.
  解き放たれた宇宙.
  ぞうさんが踏みつける君の右手.
  血なまぐさい処女の群れ.
  何も知らない優等生.
  物知りの劣等生.
  アイスクリームが食べたいな.
  バウーン,チョキ,イッタ〜イ.

 彼は海の風景を見つけると,そこに彼と家族のあることを望んだ.幼いころの記憶.楽しい家族旅行.砂の城.砂の風呂.傘の影.母の脂肪.父の無駄毛.妹の幼い胸.白い太陽.何もない空.勘違いした恋人.似たような家族.色黒の白人.打ち寄せる泡.立ちはだかる波.泳ぐ貝.眠る魚.一日だけの海.しかし,彼には何も見ることができなかった.彼の望むいくつかの海の記憶を見ることができなかった.
 一枚の写真が手帳から空気を泳いで彼の手にすくわれた.幼い子供の写真.誰かは分からない.ミルクの缶を抱く可愛い男の子.ふっくらとした指先.笑み.笑み.白い靴下.薄暗い箪笥.誰かの子供時代の写真.父か母かどちらかが撮ったのだろう.妹が撮れる訳がないし,人見知りの激しい子供が笑っているのだから両親に違いない.しかし,この子は誰なのだろう.
 あまり役に立たなかった恥ずかしい手帳と子供の写真を左胸のポケットに入れて男はまた部屋の中を記憶を求めて歩き始める.化粧台の大きな鏡に映る自分をいつからか見ている.髪は銀色に逆立ち,目は思っていたよりも細い.背はあまり高くない.人間の姿をしている.名札には

  元宇宙飛行士S−508

「君は誰ですか?」
 問いかけたところで返事がくる訳がない.
 ぬいぐるみと手をつないで台所へ行く.うさちゃんは何も言わない.それでも寂しくはない.そこにいてくれるだけでも随分心強い.青い食器がただのテーブルに無造作に,かつ高く積まれている.桃色のスプーンがその脇に無秩序に並んでいる.一番上の食器にサラダを盛って食べ始める.やはりサラダは何もかけずに生で食べるのが一番良い.キャベツとにんじんの絶妙なコンビネーション.それはつまり怪しい関係.うさちゃん.彼は食器を元に戻し,桃色のスプーンで女の太もものようなプリンを食べる.甘い空間.まろやかな夢心地.
 手帳,写真,鏡,ぬいぐるみ,青い食器,桃色のスプーン,サラダ,プリン.
 彼は女性を思い浮かべる.理想の人.それに近い人.または一つでも条件に当てはまる人.恋人.友達,母親,妹,幼い子供,幼い胸.うさちゃん.汚れたスカート.君.血なまぐさい処女の群れ.何も知らない優等生.記憶.わずかな記憶の言葉の中から一人の女性を導き出す.砂の城.家族旅行.幼い胸.勘違いした恋人.立ちはだかる波.泳ぐ貝.眠る魚.言葉のパズルから徐々に一人の女性が現れる.愛する女性.父か母のどちらかが撮った写真.人見知り.この子は誰なのだろう.記憶が渦巻く.彼は記憶から記憶を呼び戻す.女性.愛.彼は歩き回る.見るものすべてが彼の記憶の証拠となる.純白の青空.美しい幸福.笑み.笑み.笑み.つるるん.解き放たれた宇宙.らったった〜ん.待っている.ぴら〜ん.物知りの劣等生.ぞうさん.勘違いした恋人.ミルクの缶を抱く可愛い男の子.真っ白な衣服.女の太もものようなプリン.
 記憶は時に,今そこで起こっているかのごとく,映像,音,感触,空気を持ってそこに帰ってくる.
「愛してるよ」
 目の前で怯える妹.倒れる妹.後ずさる妹.何かで抵抗する妹.泣く妹.触れれば死んでしまううさぎのような妹.右手を踏みつけられる妹.幼い胸の妹.美しい幸福.純白の青空.泳ぐ貝.眠る魚.勘違いした恋人.劣等生.彼女の兄.元宇宙飛行士S−508.血なまぐさい汚れたスカート.うさちゃんが眠る.眠る優等生.白い太陽.何もない空.
 妹を愛する男の記憶.

  元宇宙飛行士S−508

 宇宙への行き方も知っている.彼はこの日初めて部屋の外へ出た.もうこれ以上この部屋を歩き回る必要はない.恥ずかしい手帳.恥ずかしい記憶.今の彼は宇宙への行き方をもちろん知っている.

「僕は今,空の穴に,潜り込む」
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