わたしは高校にいる。母校ではない。
校舎と校舎を結ぶ連絡通路の壁に、写真や壁新聞やポスターが貼られているのだが、それらには漏れなくいたずら描きがしてある。この学校の生徒にはモラルというものがないのか、風紀が乱れているのではないかと思ったのだが、聞いてみるとそれらはどうやらあるひとりの先生の作品らしい。
わたしはその先生が顧問をしているという部活に体験入部する。そこにいる学生たちはそれぞれ新しい作品を作ろうとしている。わたしはドラゴンボールのゴム人形をそれぞれのキャラと似合う学生の前にひとつひとつ置いてまわる。そのゴム人形に異を唱える者もいれば作品を作るための材料が届かないと騒いでいる者もいればこぼしたインクが机からたれるのをじっと観察している者もいれば部屋中にある物をコツコツと叩いてその音を聞き分けている者もいれば蕎麦湯の濃度を測っては味を確かめている者もいれば左耳で金原亭馬生を右耳で古今亭志ん生を聴いてそのずれに酔っている者もいる。
わたしは机の上の弁当箱を見つけて学生たちに「濃い弁当」を提案する。カレーならば味の濃さではなくどれだけどろどろしたものを作れるか、その濃度こそが勝負であると熱弁し、先生も学生もその意見に大いに喜んでいる。
尿意をもよおしたわたしは部室を出てトイレを探す。すぐにトイレは見つかり駆け込むのだが、そこは何故かトイレではなく個室の病室で、便器ではなく誰もいないベッドがある。わたしのすぐ後から看護婦が入ってくる。誰もいないベッドに気づいて患者が行方不明になったと騒ぎになる。開いた窓からは風が入ってきて、真っ白なカーテンがひらひら踊っている。その姿は騒ぎとはまるで関係なく静かで優雅だ。
わたしはその騒ぎから逃れてやはりトイレを探すのだが今度はなかなか見つけることができない。ここには余計なものは揃っているが、肝心なものがないと憤る。
迫りくる尿意に体を震わせながらわたしはトイレを探して走り回る。偉い人にあちこちから献上された米やらお茶やらが保管してある立派な和室や眼鏡をかけたおばあさんが眼鏡をかけたおばあさんにレースのかかったテレビを自慢している洋間やぬれ煎餅の是非をめぐっておじいさんとおばあさんがもめている縁側などを次々に通り抜けて行く。その途中で少しはだけた着物姿で眠る木村多江を見かける。
いよいよ最後と開けた部屋からは大きく獰猛な犬が飛び出してくる。間一髪で避けるが、少し漏れた気がする。たまたま近くにいた九代目松本幸四郎がそれを捕まえようとするのだが、いつもと違ってうまくいかないと嘆く。そうして揉み合いながら犬と共にどこまでも遠ざかっていった。依然として尿意だけがわたしの元を離れない。
そうこうしているうちに日が暮れかけて、時代劇「荒野の素浪人」の主人公である峠九十郎の恰好をした三船敏郎の顔もますます影が深くなる。時代劇には夕方がよく似合うとつくづく感じる。見学に来ていた峠九十郎の恰好をしたファンを見て、三船は「なんだそのもやしみたいな体は」と彼をからかってスタッフと一緒に笑っている。
日が完全に落ちたところで撮影は中断になりそれぞれ帰り支度を始めるのだが、あるひとりの女優のことが気にかかり、その友人ら数人が残った。そして女優の泊まっている部屋に様子を見に行こうということになった。自殺をしているのではと口にはしないが誰もが心配している。わたしはその仲間ではないのだが、やはりその女優のことが気になるので一緒についていくことにする。
たどり着いたところは映画を観るようなモノクロームの古い洋館で、扉は重く中は薄暗く、かび臭い。廃墟とまではいかないが生活の痕跡が途絶えたように静かで景色がぼんやりとしている。くすんだ壁紙の中で無数の薔薇がそれぞれを模倣して咲いている。重い手すりと影が染みこんだような赤い絨毯の螺旋階段を上って女優の部屋へ向かう。絨毯に飲み込まれるのか足が重い。
女優の部屋は天井も壁紙も絨毯も赤で統一されているのだが、灯りがなく空気も淀んでいるせいか、潰されそうなほど重く沈んで見える。その部屋の真ん中で女優は胎児のようにソファに横たわっている。これから産まれようとしているのかもしくはすでに亡くなっているのか、静かで穏やかな横顔にわたしは声をかける。
「おはよう」といつもの人といつもの朝を迎えるように女優がゆっくりと目を覚ます。わたしはいつもの人といつもの朝にするように女優の横たわるソファの傍に腰掛ける。そしてわたしは靴下を履こうとするのだが、使い古したその靴下の指先には穴が開いていてなかなかうまく履けない。そういう靴下を履いていた下積み時代があったねとふたりで笑う。
「ところで、探し物は見つかったの？」という女優の問いに答えようと振り返ると、女優はもう眠っている。
静かで穏やかな横顔が美しかった。