魚屋の夫婦
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 こんな夢を見た。
 いつものお店でトロの切り身を八百円分購入しようと思ったのだが、会計の時点でお金のないことに気づいた。と、そこに通りすがりの高校生がすっと財布を取り出し、見ず知らずのわたしのために粋に立て替えてくれたのだ。
 で、よく見ているとその店の主人がお釣りを渡すふりをして、こっそり受け取った額をすべて高校生に返してやるという、こちらもまた粋なことをしてくれたのをわたしは見逃さなかった。
 わたしは続けて見た粋な善意に興奮しながら、高校生と共に店を出た。そして彼にお礼を言いながら歩いていたのだが、ふと、手元にトロがないことに気づき、急ぎ店に引き返した。
 店に戻ると、店の女将さんがわたしのトロを炙って寿司を握ってくれるというこれまた粋な計らいを見せてくれた。大きな貝の上に乗せられて脂を滴らせる炙りトロがたまらなくおいしそうだ。出来上がるまでの間、店の主人と先の高校生についての話題になり、彼はあそこの高校だと末は自衛官になるだろう、えらいもんだ、と聞かされる。それはまるで自分の自慢話をするかのように誇らしげに見えた。
 いつの間にかすっかり店の主人と意気投合してしまったわたしは、店の奥にある老夫婦の自宅で、のんびり昔話なんかを聞くことになった。冷えた麦茶がおいしい。ちゃぶ台と畳だけの部屋には夕方の影が忍び始めている。日はまだ沈みきるまで少し余裕があったが、それを待たずに部屋が暗くなった。
 海の潮を防ぐために店の裏手に高い壁を築いたらしい。昔は空き巣が多く、中でも近所に住みながら何食わぬ顔で犯行を繰り返すレオタード姿の常習犯がいて、自衛の策として壁に蔓をはわせたらしい。蔓があったらむしろ余計に壁を登り降りしやすいのではないかと思ったのだが、主人がどんなもんだと言わんばかりに熱く語るので、わたしはただ微笑みながら頷いていた。
 老夫婦の自宅は風の通りがよく、夏はとても快適そうだった。禿げた主人はわたしに密着しながらどんなたわいもないことでもすべて自慢話として誇らしげに語った。女将が今日は何処に行こうかしらとそわそわしている。
 そろそろ時間かな、と思ったわたしは名残惜しさを感じながらも、老夫婦の家を後にし、トロを受け取る為に店の方に戻った。
 店には菓子類も揃えてあり、久しぶりにブラックサンダーがほしいなと思ったのだが、そもそも財布にはお金がなく、断念した。
 トロを受け取る際に女将が会計をしようとして、あらもう済んでるんだったわね、と笑う。その隣で店の主人がレジの扱いに苦戦しているのだが、昨日新しく買ったばかりで使い方がよう分からんとこぼしている。見ると確かにそのレジは新品らしく白く光っていて、ディスプレイもボタンもいかにも最先端風で、ただ見ようによっては電話機に見えなくもなかった。
 帰り際に、店の主人に一筆いただきたいと紙を渡され、名前や出身大学などを書いていると、そこにふらりと松たか子が現れ興味深そうにそれを覗いてきた。特に出身大学を書くあたりで、えっそうだったのぉ、とやたらと食いついてきた。わたしは照れてしまい、頼むからみんなにはくれぐれも内緒で、と松たか子に懇願しながら続きを書き込んでいった。
 それにしても、わたしがこの店に前に来たのはいつのことだったか、そもそも本当に来たことがあったのか、もしやそれは夢だったのではないか、そもそもここへはどうやって来たのか、老夫婦はこれから松たか子のコンサートにでも行くのだろうか、わたしもついでにお呼ばれしてもらえないものだろうか。と考えているわたしの横で、松たか子を相手に店の主人が自慢げに笑っていた。
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