あのころ しゃぼん玉
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 同じアパートにわたしと同じとしごろの女の子が住んでいた。
 彼女とは一言も言葉を交わすことはなかったし対面したことすらなかった。ただわたしが少し離れた場所から一方的に見ているだけだった。それでも、ずっと昔から一緒にいて、そしていつまでもそばにいられると思っていた。
 わたしはそのころ、小さなアパートの二階の角部屋に住んでいた。
 窓を開けて外に少しはみ出す手すりに寄りかかり、そこでよく外を眺めていた。表の通りを走る車の数を数えてみたり、屋根の色が何種類見えるか確かめてみたり、あるいは空想に耽ってみたり、のんきに鼻歌を歌ってみたりした。そんな些細なことでもいつしか夢中になり、あっという間に時間は過ぎていった。
 そんな日々が続いていたある日、わたしの部屋とはちょうど対角にあたる一階の角部屋の窓から、わたしと同じように手すりに寄りかかっている女の子がいることに気づいた。彼女の部屋からは何が見えているのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、わたしは二階の窓から彼女を見ていた。
 あくる日も、またその次の日も、同じように彼女はそこにいて、わたしもまた同じように彼女を見ていた。いつしかそれがいちばんの目的になっていて、彼女を見るために窓から顔を出し、彼女の姿がないときは見えるまで日がな一日空を眺めていた。
 彼女はいつもそこでひとりだった。
 そこにいるのが好きだったのか、あるいはただ時間を埋めるためにそこにいたのか。そのときの彼女がどんな思いでいたのかを考えていたら、それでは自分はどうだったのだろうかと思い始めた。ひとつ確かなことは、わたしの場合はあるときから、彼女に会いたかったからだった。
 彼女の方はわたしに気づいていたのだろうか。わたしは子供心にそれを期待して、いつか話ができたらいいのにと夢見るようになっていた。でも、わたしからは声をかけることも直接そばに行くこともできなかった。そのためにどれくらいの勇気が必要で、どういう行動を取ればよいのか、子供だったわたしにはわからなかったし、今思えばほんの少しの距離も、そのころは果てしなく遠く感じられた。
 それでも、わたしは彼女と同じ場所にいて、同じ時間と秘密を共有している気がしていた。もしかしたらわたしたちはそれぞれがそれぞれの分身なのかもしれない。わたしが今見ている景色が彼女にも見えて、彼女が笑えばわたしも笑うことができる。そうやって妄想することでわたしは無意識に彼女との遠すぎる距離を埋めていたのかもしれない。
 いつからか、彼女はしゃぼん玉で遊ぶようになっていた。左手にピンク色の容器を持ち、右手には緑色のストローを持っている。彼女が吹くと、緑色のストローからふわふわと揺れる小さなしゃぼん玉がいくつも空に飛んでいった。
 そのしゃぼんの玉が、わたしの手の届くところまで飛んでこないかと期待して見ていたのだが、どの玉も風が運んできてくれる前にふっと消えてしまった。それでもわたしは小さく見えるそのしゃぼん玉を見ているのが好きだった。
 しゃぼん玉には彼女の思いがこめられているような気がした。一度も聞いたことがない彼女の声に見えたのだ。彼女は話すようにしゃぼん玉を作る。そのしゃぼん玉が飛んでいき、飛んで行った先で誰かに思いを伝える。わたしは彼女の言葉に触れたかったのだと思う。しゃぼん玉で遊ぶ彼女はいつになく楽しそうだったのを覚えている。緑色のストローから生まれた小さなしゃぼん玉を、はじけるまでいつまでも追いかける彼女の、その愛おしそうな目が今でも忘れられない。
 変化ということを知らなかったそのころのわたしは、この日常がいつまでも続くものだと思っていた。
 彼女はわたしが小学校に入ったその年に、わたしより一足先にそのアパートを去っていった。理由はもちろんわからない。しばらくはそんなことも知らずにいつものように窓から顔を出して彼女を待っていた。しかし、いつまで待ってみても彼女は現れなかった。
 空ばかりを眺める日々が続いた。そのうち、その窓から空を見ることもなくなり、それからすぐわたしも引っ越してしまった。
 今でも空を眺めているとあのころを思い出す。
 はじけて消えたはずのしゃぼんの玉が見えてくる。その中には、決まって彼女の笑顔が見えた。
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